暮らしとスポーツを“つなげる”、新たな取り組み「two-nagual
新コーナー「ひと」は、「two-nagual」の世界を体現する各界のスペシャリストが、
“仕事観”を語るロングインタビューです
第1回の「ひと」は、日本を代表する登山家、戸高雅史さん
戸高さんは、長年のヒマラヤ登山などで培った自然観を
ご自身が主宰する「野外学校FOS」などを通じて、多くの人々に伝え続けてきました

two-nagual 第1期「トレッキング」特別講師
とだか まさふみ/1961年、大分生まれ。登山家、登山ガイド。
1996年の世界2位K2単独無酸素登頂をはじめ、ナンガパルバット(1990年)、ブロードピーク(1995年)など、ヒマラヤの8000m峰の登攀でキャリアを築くとともに、子どもとファミリーのための自然体験教室「野外学校FOS」を立ち上げる。
現在は、FOSを中心に、“命の共感”をテーマとした親子登山やファミリーキャンプなど、さまざまな体験プログラムを展開している。

「アウトドアを仕事にする」の始まりは、
ヒマラヤへの想い

山に親しむきっかけは、高校の数学の教員を目指して進んだ、大学の探検部です。
その探検部のテーマは、 “未知なるものへ”。
何をやっても良くて、自分が興味あることを、動いて確かめるというクラブでした。
そうしたスピリッツに魅了されて、私は山に興味を持ち、教員を目指していたので、子どもたちにも伝えたい、体験させたいと思いました。

山は、仕事という捉え方を最初からしていなくて、僕にとって“やりたいこと”でした。
ましてや当時の僕では、山だけでは生活できません(笑)。
若さの特権なので、自分の情熱を向ける対象=山として、僕の思いはヒマラヤにまで向かいました。

30年ほど前、ヒマラヤ登攀の死亡率は、3%と言われる時代でした。
当時は、それでも毎年のように、「今回で、自分の人生が終わるのかな……」という覚悟で、ヒマラヤに行っていました。
ヒマラヤに行くと、3か月はかかるので、日本でトレーニングをして、遠征費を賄うためにアルバイトをしての繰り返しで、ヒマラヤに行くときは、いつも貯金通帳はゼロ(笑)。
そんな生き方を、14、15年続けました。

今は、フリーターなどという言葉もありますが、30年前の九州では、「そんなことをやっていたら、とんでもない人生になるぞ」と家族や親戚のおじさんからも、いろいろお叱りを受けました。
それでも、自分のなかにある“山に登りたい”という気持ちは、打ち消せませんでした。

デナリ峰6190m(写真提供/戸高雅史氏)

迷いと決別するために、独りマッキンリーへ

いざ、ヒマラヤを目指しても、すぐに8000m級の山頂に立てませんでした。
最初のヒマラヤは、23歳の時でした。

当時の僕は、技術も経験も未熟で、雪崩に2回巻き込まれました。
ヒマラヤの高所で、1回はテントごと流され、もう1回は200mほど流されました。
本当に死の一歩手前で、額縁に入った自分の遺影を想像しました。
当時の自分にとってはギリギリの体験で、“こんな世界は、自分には無理だ”と、諦めることも考えました。

それでも半年ほど経ち、大学院の課程が終了する1987年に、“このまま諦めたら、一生後悔するかも”と感じ始めました。

“自分の本当の力を確かめたい”

“通用しなければ、スパッと潔く諦めよう”

“そのためには、独りで行って、自分の力を見極める”

そんな考えから、植村直己さんが登られたアラスカのマッキンリー(現在は、地元の言葉のデナリ=聖なる山、が正式名称。6190m)、デナリ峰に独りで行いきました。

デナリパスにて(写真提供/戸高雅史氏)

本当に厳しい時こそ、真剣になれる

最初の3日間、正直、怖さは抜けませんでした。
4日目は吹雪で、本来であれば「停滞」と言って、テントから動かず天候の回復を待つのですが、その時は「今日、ここで停滞したら、僕の登山は終わるんだな」という予感がしたんです。

吹雪のなか、テントを畳んで登ったのですが、本当に厳しい時って、真剣になるんですね。
そうしたら、いつの間にか、怖いという感覚が消えていたんです。

せっかく山にいるのに、自分の意識にベールを掛けて、怖いと思い込んでいました。
そのベールが、いつの間にか外れ、山にいることが楽しくなりました。
19日目に頂上へ立てたのですが、デナリの山頂が近づくにつれ、涙が止まらなく、泣きながら山頂に立ちました。

デナリ峰での体験で、“ヒマラヤに、やっぱり行きたい!”という思いが確かになり、ヒマラヤに登れるようになれました。 

「野外学校FOS」の取り組みより(写真提供/戸高雅史氏)

“この道で、やってゆこう”

酸素ボンベなしで、ナンガパルバット(8125m)の山頂に立てたのは、28歳の時です。
デナリ峰の登頂から、4年掛かりました。

ナンガパルバットの登頂は、最終的に2人で目指しました。
でも、頂上間近で、一緒に登っていたパートナーが、残念ながら亡くなってしまいました。
体調が優れない彼のことを考えて、一緒に降りる選択肢もありましたが、当時の私は、「待っていて欲しい」と告げて彼に、単独で頂上を目指しました。

待っていた彼も、その後、登りたくなって「行くぞー」という声が聞こえたのですが、高度の影響もあって、岩でスリップしたんだと思います。
頂上から戻り、亡くなった彼と向き合った時、若さなりの思いもあって、“彼の分も……”という気持ちになりました。

それから、山に登る、特にヒマラヤの8000m級に登ることに、迷いがなくなりました。

“この道で、やってゆこう”

そして、登山ガイドを始めました。

この続きは、ひと『「山を仕事にする」中編 登山家 戸高雅史さん』に、つながります! 

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